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2007/06/16
カテゴリ: 牧師室より : 

執筆者: pastor (8:16 pm)
タイにおける象公園での最後のアトラクションは、いかだによる45分コースの川下りでした。一つのいかだに6人が乗り、舵取りが前と後に一人ずつ付いていました。今回のツアーには送迎、現地での昼食代、象のショウ、象に乗っての散策、いかだでの川下りと盛り沢山のアトラクションが用意されていながら、費用は一人たったの29ドルでした。
静かに流れる川をゆっくりといかだは進んで行きます。舵取りは、同時にガイドでもあり、周りに見える風景を説明してくれます。ただ、英語ができないので、英単語を用いての説明、あとはタイ語です。説明する彼らも大変でしょうが、それを聞いて理解しようとするこちらも大変でした。それでも、わたしたちのいかだではラオスの牧師が通訳をしてくれたので、他のいかだよりは内容が分かったはずです。川を下り始めると、周りにバナナの木やココナッツの木などがあちらこちらに生えているのが見えます。他にもいろいろな果物の木が生えていました。また、ところどころに住まいと思える家も見えました、中には、木の枝の上に立てられたツリーハウスもありました。あの牛舎の御者の家より大きめの家がありましたが、その家の庭には象が鎖につながれていました。
ここは、チェンマイから車で30分のところにありますが、一旦その中に足を踏み入れると、そこは、まったく別世界のように感じました。わたしは、舵取りの二人にたまにはチャンマイに行くのかと尋ねました。距離的には遠い訳でもなく、わたしは当然行っていると考えたのです。しかし、彼らの回答は、「一度も行ったことが無い」というものでした。経費がかかりすぎると言うのです。チェンマイへ行き、ホテルに泊まり、レストランで食事をしたりすれば29ドルはかかるし、それだけのお金は無いと言うことでした。わたしたちにとっては、たったの29ドルではあっても、彼らにとっては29ドルもの大金だったのです。彼らの返答を聞いて、わたしが自分の尺度で彼らを測っていたことに気づかされました。
わたしたちは、自分の出来る事は他の人も出来なければおかしいと考えます。そして、出来ないのは、しようとしないからだと決め付けてしまう傾向があります。自分の尺度で相手を量ってしまい、直ぐに裁き心をもって他人を見るのです。そこで、不必要ないがみ合いや争いが起こります。そんなわたしたちにイエスは言われます。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」。(マタイ7章3節)自分のことは棚上げにして、他の人の出来ないことばかりに目を向けるのは良くないということでしょう。わたしたちは、相手の状況や立場を理解し、受け入れることが求められているのです。パウロは忠告しています。「思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」。(ローマ書12章3節)
今回のことから、わたしたちは、自分の出来ることを人に押し付けようとするのではなく、相手の出来ることを伸ばしてあげる事にもっと心を配るべきであると教えられます。
2007/06/16
カテゴリ: 牧師室より : 

執筆者: pastor (8:13 pm)
前回、象に乗った話をしましたが、お土産屋が並ぶ小さな部落に到着した時、私たちは、一旦象から降ろされました。そこからは、今度は牛車に乗っての道のりでした。牛車の御者は、サービスの旺盛な人で、途中、牛舎が動いている間に、頼むと車から降りて前に走って行き、牛車に乗っているわたしたちの写真を撮ったりしてくれました。出発地点に差し掛かると、御者が、彼の家を指差して教えてくれました。それは、畑の中に建っている一軒家でした。家と言っても、アメリカで言えば農家の裏の方に放置されている廃墟となった納屋のような感じです。電気さえ通っているのか分かりませんが、竹を編んだような壁にわらで屋根を覆ったものでした。小さな窓が空いていましたが、そのために傘で支えられていました。その家は、わたしにとっては粗末なものに見えましたが、彼にとっては、そこが大切な家庭の場であり、かけがえのない安らぎの場であるに違いありません。
家って何でしょうか。それは人間が安心と安らぎを得るための場所であり、それを家庭と呼びます。しかし、家そのものは建物でしかありません。家は、その中に住む人に安らぎを与える場所であって、はじめて家としての価値があるのではないか思います。どんなに立派な家でも、その家の中に安らぎを見いだせなければ、人はきっとそこから逃げ出したくなるのではないでしょうか。この御者にとって、毎日の仕事を終えて、一日の疲れをとり、安らぎを感じる家庭いう場所なのです。
アモスは、神の審判を安易に考えるイスラエルに対して、その恐ろしさを家の中にあっても安らぎを得られない状況をもって記しています。「わざわいなるかな、主の日を望む者よ、…。人がししの前を逃れてもくまに出会い、また家にはいって、手を壁につけると、へびにかまれるようなものである。」(アモス書5章18-19節)ここで家は本来安らぎを得ることの出来る場所であることを暗示ながら、主の日は、その家の中にいても安らぎを得ることの出来ないほどに恐ろしいものであると解いています。
これに反して、詩篇23篇の言葉には心に安らぎを与えてくれます。詩篇23篇は、羊飼いと羊の信頼関係の中で得る安らぎと平安が表現されているように思います。臆病な羊にとってたとえそこが緑の牧場であっても“伏す”とは、それだけ共にいる羊飼いに信頼と平安な思いがなければ出来ないことなのです。そして、最後に「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」と言っています。家の良し悪しは、そのかたちではなく、その中にあって得られる心の安らぎの度合いによるのではないでしょうか。羊飼いにどんな状況にあっても守ってくれる力と優しさを感じた羊の姿を通して、詩篇の作者は、たとえ死の陰の谷を歩むともわざわいを恐れることがないと言うのです。
「万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神に向かって喜び歌います。」(詩篇84篇1-2)
2007/06/16
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執筆者: pastor (8:01 pm)
バプテストアジア大会二日目、休み時間にホテルのロビーで観光ツアーについて尋ねました。いろいろなツアーが企画されていましたが、夕方の集会に間に合う様に戻ってくるツアーの一つに象公園ツアーがありました。また、費用が交通費込みで29ドルということでこのツアーに決めました。
車で30分走ると、公園に到着です。最初に象の芸を見ました。わたしの目の前で、象はボールを丈夫に操り、ゴールにめがけて蹴ったり、鼻でうまくボールを掴み、今度は、バスケットのゴールに投げ入れたりしていました。象がいかに頭が良いかを見せてくれたショウーでした。
ショウの次は昼食です。ラオスの牧師がタイ語でうまく話すと、わたしたちのテーブルには、特別にタイの卵焼きが運ばれてきました。昼食が終わると、いよいよ象に乗って散策に向かいます。御者は、象の頭の上に乗ってうまく象を操縦していました。わたしは、その後の椅子に座っていれば良いのでゆっくり象の背中から見える景色を堪能しました。象は、静かに歩き出し、川を渡り、林の中を行き、最終地点である小さな部落まで来ると、わたしたちを降ろすとさっさと元の場所へ早走りで帰って行きました。
この公園には全部で60頭の象がいるとのことでした。途中の林の中に放し飼いになっている象も見ました。象の背中は、決して乗り心地の良いものではありませんでしたが、ゆっくりと歩く象は、なんとなく頼もしさを感じさせてくれます。それ以上に、あの大きな象の耳をつかんでうまく誘導する御者に感心させられました。途中、別の道を行く象に乗った二人の人に出会いました。すると、わたしの乗った象は、そちらの方にくっついて行こうとしたのです。しかし、即座に御者が耳を掴んで戒めると、象は、直ぐに自分の行くべき道へと戻っていったのです。
ヤコブは、ヤコブの手紙3章でわたしたちの口が持つ抑えがたい力について言及しています。そして、口を制する事の出来る人がいたら、その人は完全な人であるとはっきり言っています。ただ、その口を制することの出来る人はいないとも断言しているのです。ヤコブ書3章5節で言っています、「それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか」。わたしたちの舌は、今回わたしが乗った象のようなものかもしれません。巧みで賢く、暴れだすと誰の手にも負えない。ただ、気が静まるのを待つしかない、そんな存在、それがわたしたちの口であり、舌なのかもしれません。この舌を制することが出来なければ、わたしたちは、人生で大きな過ちを犯し、更に、多くの人に傷を負わせることになるかもしれません。
では、どうしたら良いのでしょうか。ヤコブは、「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主はあなたがたを高くしてくださるであろう」と記しています。象がその頭に乗った小さな人間に従順であるように、わたしたちもわたしたちの心に内住されている聖霊に聞き従う時、過ちを犯さずに済むのではないでしょうか。
「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネ16章13節上)
2007/06/16
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執筆者: pastor (7:58 pm)
今回の大会には、2000人を越えるバプテストの信者たちがアジア地域27の国から集まってきました。もっとも参加者の多かったのはインドのバプテストの兄弟姉妹たちです。日本からも40人近い人たちがこのために来られていました。その中には、わたしが沖縄伝道で奉仕させて頂いた教会の牧師たちも何人かいました。
大会は、朝に集会があり、昼には分科会、そして夜に再び大きな集会が計画されていました。わたしたちは、チェンマイに到着したその日から、毎日、さまざまなプログラムに参加しました。開会礼拝の中で、アジアのそれぞれの参加国の代表が自国の国旗を手に入場し、アジアのバプテストがキリストにあって一つである事をアピールしていました。また、民族衣装をまとった参加者たちが讃美や踊りを通して主に栄光を捧げていました。
大会の主題は、“Asia, Jesus Cares!”です。アジアには世界の人口の3分の2にあたる人が住んでいます。ところが、その内の8%だけがイエスを主と告白するクリスチャンであると言われています。また、アジア地区には、世界の70%にあたる最も貧しい人々と裕福な人々が混在していると言われています。貧しさを語るとき、一日の収入がアメリカの1ドルにも満たないのです。こうしたアジアの国の人々をイエスは、心にとめて下さっておられる。それは、また、わたしたちにも同じ思いを持ってアジアの人々の為に思いを向け、手を差し伸べていく事が求められている、と言う事です。
福音を宣べ伝えるとは、単に、御言葉を語ることにとどまることなく、具体的にみ言葉に生きることが求められているのです。わたしは、大会中に何人ものインドから参加されているクリスチャンと話す機会がありましたが、彼らの多くは、イスラム教の攻撃の中、命の危険にさらされながら、必死に福音に従って生きています。今回は、特に、インドの南の地方から来られた方々と多くお会いしましたが、貧困に生きる人たち、それ故に、さまざまな病気に苦しむ人たちに対して、彼らの宣教は、苦悩の中に生きる人々の必要に応える方法で神の愛を宣べ伝えているのです。
わたしたちは、アメリカの中では確かに小さな教会です。しかし、わたしたちは自分たちの教会堂をもって自由に礼拝を守る事ができます。また、経済的に十分ではないかもしれませんが、必要は備えられています。そして、他民族の教会と経済面で比較するなら、決して小さな教会ではありません。こうした中で、わたしたちの教会も諸外国の苦悩の中で戦うクリスチャンたちに対して、具体的な宣教に携ることが出来たなら、それによってより神に喜ばれる教会として神の祝福を得ることが出来るのではないでしょうか。
イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである。」マタイ11章4-6節   
2007/06/16
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執筆者: pastor (7:55 pm)
2007年5月2日、タイのチェンマイ市で第7回アジアバプテスト大会が開催され、テキサスの連盟から代表としてわたしはラオスの牧師と出かけてきました。4月30日にダラスを発ち、次の日の午後成田空港に到着、その3時間後にタイのバンコク市に向かいました。わたしたちを乗せた飛行機がバンコクに到着したのは、5月2日の午前12時30分、既に、チェンマイへ向かう飛行機などありません。わたしたちは、飛行場で朝まで待つことにしました。夜中の2時半にバンコクの飛行場始めてのタイ料理を頂きました。バンコクの飛行場は、夜中でもレストランがあいているので感謝でした。
翌朝7時半の飛行機に乗り込み、わたしたちはチャンマイへ向かいました。飛行場では、大会の会場になっているホテルから送迎のバスが待っており、他にも同じ頃に到着した人たちがあり、それらの人たちと乗り合わせてホテルに向かいました。ホテルに到着し、部屋の鍵をもらったものの、今度は、部屋が見つかりません。同じ車で来たフィリピンの婦人たち二人も部屋が見つかりません、何度も近くにいる人に聞きながらやっと自分たちの部屋を探しました。わたしたちの部屋は6階だったのですが、それは別館の6階で、まずはチェックインした建物の6階に移動し、その通路を通って別館に行き、そこから更に別のエレベーターで6階に行かなければならなかったのです。苦労して、やっと部屋に入ると3日振りにベッドに横になり、なんとも生き返った思いがしました。5月2日午前9時30分でありました。そして、これがタイへ向かうわたしたちの旅でした。
行く先を知りながら、なかなか目的地に到着しない、やっと着いたと思ったら今度は部屋が見つからない。何か、天国へ続く人生の様な気がしました。天国は確かに誰もが望む人生の終着地でしょう。死んで地獄に行く事を望んでいる人などいません。しかし、その目的地は分かっているのに、どうしたら行けるのがわかりません。まず、天国へ向かう道を見い出し得ていない人が多くいるのではないでしょうか。目的地に行くには、決められた道があるはずです。どの方向に向かっても天国に着くわけではありません。決められた道を行かなければなりません。天国へ続く道がイエス・キリストの十字架の道なのです。
天国への道に向かって動き始めたとしても、天国への道は険しいものです。それはクリスチャンとして生きる上で戦いがあることを示唆しています。本当にこの道で良いのかと信仰を不振に思うこともあるでしょう。わたしは、クリスチャンになって後、本当に天国へ行けるのか疑問に思ったとこがあります。人生は紆余曲折、さまざまな問題にぶつかりながら、悩みながら、それでも与えられた道を信じて進んでいくのです。自分の知識に頼るのではなく、全てを神に委ねて与えられた天国への切符を大切に前進していく時、必ず、天国に最後の安らぎの場を見いだす事でしょう。
「主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さるであろう。栄光が永遠から永遠にわたって主にあるように、アァメン」テモテ第二の手紙4章18節
2007/05/07
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執筆者: pastor (12:50 am)
聖書は世界中の人々に読まれている書物です。聖書ほど、多くの人に親しまれ読まれている書物は他に例をみません。現在も、ウイクリフ聖書翻訳協会の働きを通して更に多くの国語に訳されています。絶えず隠れたベスト・セラーとして知られてきた聖書、この魅力とは何なのでしょうか。
誰にでも読む事が出来る書物であることが第一でしょう。確かに、歴史の中で聖書は一般庶民には読む事を禁じられていた時代がありました。それだけではなく、一般向けに聖書を翻訳したりすれば大罪として死刑にさえなりました。しかし、聖書は誰もが自らの目で読む事によって神の真の恵みを受けることが出来ると、命を掛けてこの聖書の翻訳に携わった人たちがいました。こうした人々の働きを通して、聖書は、今、誰でも自由に手にする事が出来るようになりました。
今の時代は、どの様な情報でも簡単に手にする事が出来ます。病気にしても、稀な病気などの場合、今まではお医者さんに相談するしか出来なかったものも、今では、誰でもインターネットを通して簡単にその情報を得ることが出来ます。同じように聖書には、わたしたちに人生におけるありとあらゆる問題に対する解答が網羅されているのです。イエス様は言われました、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜すものは見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである(マタイ7章7-8節」。
聖書の持つ魅力とは人に計り得ない可能性を提供するところにあるのではないではないでしょうか。イザヤが55章の9節で「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」と記しています。人が聖書を通して神の計り知れない知恵に触れる時、人間の限界を超えてなされる神の力の可能性の中に希望を見いだす事が出来ます。
聖書は、この世が与える事の出来ない心の平安を与えてくれます。この世は、人の罪に対する裁きを下す事は出来ます、しかし、罪をわたしたちから取り除く事はできないのです。どんなに清い人であっても罪のない人はいません。それは、聖書も認めています。すなわち、「彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行うものはない、ひとりもない(詩篇14篇3)」。しかし、聖書は、解決の道も備えて下さっているのです。「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪をおうためではなしに二度目に現れて、救いを与えられるのである(ヘブル9章28節」。
今、教会に求められている働きは、種まきです。わたしたちが御言葉の種をまいたなら、神がそこから目を出し成長させ、豊かな実りを与えて下さいます。
「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心で良く教えて、責め、戒め、勧めなさい。」(第二テモテ4章2節)
2007/04/13
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執筆者: pastor (7:41 pm)
アダムはエバと共に生きる中で本当の喜びを見出しました。ロトは、アブラハムの熱心な祈りのお陰でソドムとゴモラに対する神の裁きに巻き込まれることから免れる事ができました。エジプトへの神の使者モーセは、口下手な自分のために実兄アロンが同行することで働きを全う出来ました。ダビデは親友ヨナタンを得た事で、サウル王の剣から逃れる事が出来ました。
誰もが一人で生きることの難しさを感じています。その様な中で、共に生きる者を必要としています。自らの人生を共有できる人に出会うことで、わたしたちの人生は、大きく変わっていきます。人は、さまざまな感情を心の内に抱くものですが、そうした感情を分かち合える相手がいるかいないかによって人生を喜ぶ事ができます。誰もが人生に良き友を求め良き師との出会を願っているのです。
今の世の中で職を得るための条件として、人脈の厚さが取り上げられます。職を探している人にとって、この人脈は大きな力になります。どんな経歴を持っていようと、知り合いのいない会社に受け入れられることは難しいものです。わたしたちの周りにも多くの若者が何十通もの履歴書を送りながら、未だ職にあり付けないでいます。ところが、知り合いが居れば、何の努力もなく職にありつくことも可能なのが社会の実情です。
管理職にある人の成功の条件として挙げられるのも人脈です。そこには三種類の異なった職種にある人との関係が求められています。まずは報道関係です。管理職にある人は、社会の動向に明るいことは必須です。その中でも、世の中の変化に敏感であることは、会社を成功に導く大切な要素です。こうした社会の動きについては、報道関係に友人が居ればいち早く認知する事が出来ます。次に医者です。管理職は決して楽な仕事ではありません。責任も重く、背負わなければならない問題も山積みです。中には、胃潰瘍になる人が多くいます。それだけではなく、さまざま病気にかかりやすくなります。しかし、忙しさの中で十分の自分のからだを管理できないのが管理職であります。こうした人の顔色を見て適切なアドバイスを与えてくれるのが医者の友人です。病気は早期発見、早期治療が大切です。こうして健康を維持してこそ、良い働きを全うすることが出来るのです。そして、もうひとりは宗教関係の友人です。宗教家は、人の内面に目を向けてくれます。管理職にとって心の問題を素直に相談できる人はなかなか得る事が出来ません。宗教家は、そんな内面の問題にメスを入れ、適切な助言をしてくれます。
神は、クリスチャンに必要な助け手を送って下さいました。それが聖霊です。聖霊は、信じる者の心に住み、声に耳を傾け、必要な導きを与えて下さいます。この聖霊の存在を生活の中で認めることが出来る時、そこにはクリスチャンとしての人生のおける成功があるのです。祈りはわたしたちの心を聖霊の語りかけに敏感にします。聖書は、聖霊の声と別の声を識別する知恵を与えてくれます。この聖霊との交わりを通して神の救いに生かされている自分の存在を認めることが出来るのです。
「神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜った御霊によって知るのである。」第一ヨハネ3章24b節
2007/04/08
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執筆者: pastor (4:00 am)
わたしたちの教会では、毎月、第一日曜日の礼拝中に主の晩餐式を執り行います。この日に読まれる聖書の箇所は、第一コリント11章23節から29節です。そこでは、十字架に死なれたイエス・キリストのことを覚えるように教えられています。十字架に掛けられたイエスのからだも、また、流された血も、それはわたしたち人間のためのものであります。滅びる運命にある人間を罪から解放し、神との新しい契約によって永遠の命に生きる者として下さったのがこの十字架です。すなわち、主の晩餐式でパンをとり、杯から飲む者は、このことを実体験している者でなければなりません。
パウロは、この記念としての主の晩餐式に預かるものは、また、そのことの証人として立つ者でなければならないと語ります。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むたびに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである(26節)」。イエス・キリストにある救いを体験した者は、単に、そのことを喜ぶだけではなく、その喜びを他の人々に伝えていかなければならないのです。
キリストの死を告げ知らせるべき責任は、ここに「主が来られる時に至るまで」と記されているように、未来に対する継続的な行為でなければならないことと悟らせられます。それはまさしく十字架に死んだイエス・キリストが今も生きている事を示唆するものであります。生きておられる主だからこそ、再び来られるのです。
今日は、復活を祝う日曜日です。イエス・キリストが死よりよみがえられたことを記念とする日です。主の晩餐式で記念の行為として覚えられるイエス・キリストのからだと血とは、この死よりのよみがえりという事実が伴ってこそ真に信じる者にとっての希望につながるのです。
イエス・キリストについて最も信じ難きは、この復活の出来事であろうと思います。多くの人は、わたしたちの罪の身代わりとして十字架に死なれたイエスまでは、その程度は別にしても受け入れることが出来るようです。ただ、偉人のひとりとして理解している人が多くいます。しかし、復活に至っては、全く受け入れようとしないか、あるいは、神話の一つとして片付けてしまう場合がほとんどでしょう。
パウロは、ローマ人の手紙10章9節でもわたしたちの救いがイエス・キリストの復活を信じる信仰を基盤にしていることを説いています。「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」。復活を信じることは、確かに現代の知識においては理解しがたい事であり、非現実的なことであるかもしれません。しかし、イエス様が言われたように「人にはできない事も、神にはできる(ルカ18章27節)」ことを認めることが大切なのです。パウロも、これは神がなされたことであると説いているのです。
わたしたちの罪の為に十字架に死んだ神の子イエス・キリストは、死んで後、三日目に死よりよみがえり、今も天にて生きておられるのです。それ故に、十字架に掛けられたイエスのからだとそこで流された血を、わたしたちは心からの喜びを持って人々に語ることが出来るのです。
2007/03/18
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執筆者: pastor (5:27 am)
神を信じるとは、神の力に信頼することです。しかし、神の力の大きさを人はどれだけ知っているでしょうか。科学の発展と共に人間のからだの仕組みを少しずつですが理解し始めています。しかし、実際には、分かっていることより分かっていないことの方が多くあります。これからも多く新しい発見がなされていくことでしょうが、人間のからだの不思議を全て理解するのにあとどれだけの時間が必要でしょうか。考えてみて下さい。
神は、人間に一つの口と一つの鼻を与えて下さいました。この二つの器官の位置関係や機能について考えたことがありますか。そこには真に理に適った働きをしていることに驚かされます。わたしは、今もこの記事を書いている時には口を閉じ、鼻で息をしています。ところが、風邪をひいて鼻が詰まったりすると、鼻で息をすることが出来ません。しかし、そんな時、口が鼻で取り込めない息を変わりに吸い込んでくれるのです。これは、自然の内にできたことではなく、神が創造のはじめからその様に人間の体に備えて下さった働きです。こうした不思議は人間のからだには数限りなくあり、このことを通して、神に隠されている計り知れない知恵の深さをしり、そんな神のなしえる力の大きさに驚かされるのです。
わたしたちが神に信頼する時、こうした力ある神の存在を認識しているでしょうか。むしろ、人間自身の知恵におごり、神を自分たちと同等の位置に引き下ろしてしまって、人間の理解できないことは、神にも出来ない、と決め付けていないでしょうか。ユダヤ人の歴史は、神の歴史です。それは、ユダヤ人が特別な民ではなく、ユダヤ民族を通して、神が真に生きて働かれておられる方、また、大いなる力のある方であることを世界に示そうとされたのです。わたしたちは、彼らの中に働かれた神を信じています。それは、全く絶望の中にある時にも希望を与え、罪を犯して神に裁かれながらも、悔い改める者にはあわれみをもって関係を回復して下さる神です。わたしたちが信じている神とは、こういう方です。だから、どんな事でも、不可能と思えるようなことでも、わたしたちは神に祈り願い求めていくのです。
一人の会堂司がやってきて娘のことでお願いしました。「そこにひとりの会堂司がきて、イエスを拝して言った。『わたしの娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう』。(マタイ9章18節)」娘は既に死んでいました、それでもイエスに一緒に来て下さるようお願いしているのです。現代人には考えられないことです。しかし、彼は、当然のことのようにイエスにお願いしています。人には出来ないことも神には出来ることを彼は信じていたのでしょう。そして、イエスの内には神の大きな力が宿っている事を信じていたのではないでしょうか。わたしたちも、彼の様に無条件で神の力に信頼して従って行く者でありたいものです。そこに神の奇跡は起こります。
2007/02/24
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執筆者: pastor (10:22 pm)
人は、誰もが人生で成功したいと願っています。そのために必死になって生きているのです。裕福な家庭に生まれることを幸運と呼びます。また、有名校に学べば未来に希望があると言い、大手会社に雇われることで安定した未来が約束されたと考えるのです。その心にはいつも出世をしたいとの願望を持って生きています。時には結婚相手をも出世のための機会を得るために選ぶ場合があります。しかし、未来に希望を持つことで忘れてはならないことは、未来は現在の生活の延長線にあると言うことです。
未来への望みが現実となるためには、ただ未来に期待をするだけでは不十分です。また、単に良い環境に恵まれたとしてもそれで人生に成功を収めたことにはなりません。むしろ、与えられた環境の中で熱心に生きることが大切です。熱心に生きることの結果、祝福がわたしたちの人生に付随してくるのです。そして、わたしたちの熱心が省みられないことはありません。
神は、わたしたちに環境如何に関わらず、今を疎かにすることなく、熱心に働きさえすれば、いつか必ず成功と呼べる未来が来ることを教えています。ヨセフは、兄たちの嫉妬を買ってエジプトへ下る商人に奴隷として売られてしまいました。しかし、彼は、エジプトにあって役人の奴隷として働かなければならなくなった時も、また、その後、投獄された時も精一杯働きました。それぞれの場で自分の出来る最善を尽くしたのです。その結果、どうなったかといえば、最後は、エジプトの宰相の立場にまで引き上げられるに至りました。(参照創世記39章以降)
新約聖書の中では、イエス様が一つのたとえをもって教えておられます。ある金持ちが自分の財産を何人かの僕たちに任せて旅に行きました。主人は、それぞれの能力に応じて金額を決め預けていきました。主人が旅を終えて、帰ってきたとき、それぞれの僕たちがご主人のもとに引き出されましたが、この僕たちの中で主人に褒められたのは、預けられたお金を活用した者たちでした。主人は彼らに言いました。「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実だったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイ25章21節)
今から23年前に現在の教会は始まりました。最初、アメリカ人の教会の小さな一室を借りて伝道が開始されたのですが、当初の礼拝出席はひとりか二人でした。それでも伝道が継続されて行くなかで、少しずつですが礼拝出席も増え、経済的にも祝福されてきました。そして、今では、自分たちの会堂を持ち、自由に宣教をすることが出来るまでになったのです。この教会の歩みを通して、神は、わたしたちに、どんな人生でも、その人に与えられている今を一生懸命に生きさえすれば、その人の働きが必ず報いられる日の来る事を教えておられるのではないでしょうか。わたしたちの未来は、与えられている今をいかに生きるかにかかっているのです。

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